とりあえずブログ

ゴトウヒデキの活動記録や活動していない記録、それから考えたことをつらつらと書きます。

愛嬌って目に見えない

人は社会的な動物であり、協力しあうことができる。しかし、人と人との協力というものは「信頼」の上に成り立つ。

その信頼は、いろいろなものから人は判断する。僕が思うのは、容姿・持ち物・社会的立場・行動・言葉・表情などだ。なぜなら、自分でもそれを判断基準としているし、何より行動・言葉・表情は、「しつけ」というものにより、親に矯正されるものだからだ。そして、容姿・持ち物・社会的立場は社会では「マナー」と呼ばれ矯正されるものだからだ。

つまり、「そこは、他人が見るぞ」といことである。

 


そんな中、「愛嬌」というものは、容姿・社会的立場など、変えようのないものとは関係なく持つことができる。たとえ、貧乏でも能力が低くても、頭が悪くても、つまり、世間一般で言う「落ちこぼれ」だととしても持っている場合がある。

それは「信頼性」を判断するときにおいて「愛嬌」が「お金・頭脳・能力」よりも優先される、ということだ。

これは不思議だ。人は視覚情報が80%以上を占めるというのに、目に見えない「人柄」の部分で判断するとは。

自分と他人は同じ人間である。よって、自分が目に見えないところは、相手も見えていない。そして、目に見えないということは「取り繕いにくい」。つまり、嘘をつきにくい。

そんな論理が頭の中で展開されているのではないか。

 


目に見えるものはどこが悪いかも、知識があれば見えるからわかる。、直した後も、直っているか見ればわかる。それに、目に見えるものは他に音を聞いたり、触ったりもできることがほとんどだ。

一方、目に見えないもの。これはどこが悪いのか見えないからわかりにくいし、直したと思っても目に見えないから直っているのかもわかりにくい。

これでは、楽には直せない。「取り繕う」ことはできない。

 


(参考:ほぼ日刊イトイ新聞 「今日のダーリン」 糸井重里, サピエンス全史(上)ユヴァル・ノア・ハラリ, しぐさの技術 荒木シゲル)

 

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UXっていう「目に見えない」分野を確立して、世界で考えるようになったのは人としての大きな進化、のなのかもしれない。