とりあえずブログ

ゴトウヒデキの活動記録や活動していない記録、それから考えたことをつらつらと書きます。

哲学と信者と大した事ない僕の先生

今日、知り合いの人が紹介してくれた異業種交流会に行くことができた。そこで、思った以上に収穫があった。

 

初めて出会った人の信者になりかける

今日の会で、哲学について研究している人(以下、哲さん)が少しの時間お話をしてくれた。来てる人みんなに向けたスピーチだ。

哲さんは「死んでるように生きたくない」と語っていて、自分の人生の時間を丁寧に生きているようだった。自分が本当に何をしたいか、それを他人に流されることなく1つ1つ考えていた。哲さんの友人もその場にいて話を聞いたが、同じ考えを持っているようだった。

哲さんと近くで話すと、ものすごい圧を感じた。

初めはなぜか分からなかったが、会が終わり一人帰っているとき、《自分の人生の選択をどれだけ他人任せにせず、自分の考えで生きた重み》というものを自分は哲さんから感じていたのだと分かった。

そしてそれが人間の ”重さ” や ”軽さ” を決める正体だと感じた。選択する事で発生する責任を、人生でどれだけ背負って今立っているのかが決めるのだろう。

このスタンスは自分とはあまりにも違った。僕のいる大学は言い方は悪いが、惰性で生きている人が多い。哲さんとは真逆だったのだ。

本当は、今までこういうスタンスの人と話したことがないわけではない。そして、そのたびになんとも言えない居心地の悪さと、一刻も早くそこから逃げ出したい気持ちを感じてきた。

ただ、今まではそういう人には近づかないようにするか、早く話を切り上げるようにしてきた。今日は僕のいたテーブルに哲さんの友人がいたこともありずっと話す状況になったのだ。そうして観念した僕は、素直に理解できない部分を聞いていった。そうして分かったのが人生へのスタンスの違いだったのだ。

僕は大きなカルチャーショックを受け、思わず哲さんの信者になりそうな程だった。冗談でもなんでもない。これは本気である。カルチャーショックを起こすものは大きな熱量を持っていて、その熱に当てられると自分の中の人生の指針が揺らぐ。そうして宗教に入るのだろう、そんな事を思わせてしまうほどの衝撃だった。

 

世の中にはフワッとした人とキチッとした人がいる

ただここから面白かった。それを家に帰り母に話したが、世の中には(哲さんみたいな)キチッとした人もいるが、(僕みたいに)フワッとした人もいて、どちらかというとフワッとした人が多いという事を聞いた。

*キチッとした人=自分の意見を曲げない

*フワッとした人=他人の意見を良しとする(意見に流される)

母に聞くと、キチッとした人は周りの数多くのフワッとした人に耐えられず、仕事でそうやっていると病んで辞めてしまうらしい。そして実際哲さんは一度、民間の企業に入り合わなくて辞め、今は公務員だそうだ。そして僕の大学の先生もキチッとした人だが、一度民間にいたが辞め、自分で会社を立ち上げ、大学に来たようだ。確かにキチッとした人は、周りとは合わずに自分で会社を立ち上げるか、仕事という世界から離れるという手段をとっている。部活動でもキチッとした人は次々に抜けていき、比較的フワッとした人が残った。キチッとした人はトップの部長くらいだ。やはり、キチッとした人はトップか一人で生きるのだろう。

僕が大学生活で出会った大人はキチッとした人が多い。大学の先生がそうだからだ。そういう人達、そういう人が書いた本には決まってこうある《私たちの考えを理解してくれない人は沢山いる》。…なるほど、キチッとした人は孤独で一人ということはほぼほぼ確定である。キチッとした人はとてもストレスが大きそうで苦しそうだ。

 

向上心ある人から感じる「圧」は、人間として劣っている証ではない

僕は先生のもとで学んでいることもあり、どちらかというとキチッとした人を目指している。しかし、母に今回のことを言うと「あんたは若いからそれに憧れるんだろうけど、別に絶対そういう人にならなきゃいけないわけではないんだよ」と言われた。僕は性質的にはフワッとした人と母に言われた。確かに、惰性で生きることが嫌いではない。流されることが嫌いではない。

ただ、僕が思うのはこの "フワッ" と "キチッ" は、バランスだと思うのだ。僕の姉は、フワ:キチ=3:7くらいに感じる。母は5:5だ。そして僕自身はわからない。わからないので、ここまで色々考えたが、 "フワッ" と "キチッ"のどちらかを選択する必要はないと思う。頭の隅に置いておいて、自由にやればいいと思ったのだ。

ただ僕の先生とかはフワ:キチ=0:10の人で、人間の正しい姿というわけではなく、ただの一例に過ぎない。そして、いつも押されていた ”謎の圧” は《人生の中で選択する事で発生する責任を、どれだけ背負ってきたか》の違いであり、《人間として劣っている証》ではないということがわかり、ホッとした。もう少し、自分のやりたい事をやってみようと思えた。デザインについて空間デザインや、人間工学、UXの前身となる分野から知る事をしようと思う。楽しみだ。

 

しゃべり話を理解できるように…

あと、別の話だが、人の話をうまく聞けるようになった。最近読書で、まず本の流れを把握する程度軽く読み、もう一度 要点を把握するように読むようにしてる事が理由だと思われる。今日、人の話を同じような工程で話を聞いていた。嬉しい。

うわ、もう2時だ。

 

 

 

 

 

 

 

僕の乱暴で強引な論理

昨夜、僕は自室で一人、外の雨音に囲まれながらノートPCでブログを書いていた。

昨日は、ほぼ日の糸井重里さんと脳科学者の池谷裕二さんの対談をまとめた「海馬」という本を読んでいた。その本で糸井さんが言っていた

《難しい言葉でまとめなければいけないのなら、それはほんとうに思っていることではないのかもしれない》

《論理として組み立てるとき、乱暴や無理や強引を入れ込んでしまう。》

この2つの言葉、これに僕はハッとさせられた。これは糸井さんが机上で考えたものではなく体感したものだそうだ。僕はこれを聞いた時、自分のことだと思った。

僕は論理が苦手で、論理的に話せる人に憧れがある。だからだろう。自分のブログにものを書く時「本からそのまま抜き出した」ようなことを書いている気がする。自分が分からないと思う穴を専門用語や本の言葉で埋め、わかった気にしているのだ。まるで、自分が論理的に話せる人になった気分になる。それはもちろん、人に話す時も同じである。

そういうものを書いているときは、気持ちがふわふわして地に足がついてない感じがしていた。薄々気づいていたのだ。ただ糸井さんの言葉は、そんな自分に強引に目を向けさせてくれた。

 

このことを知ってしまったからには、最近書いたブログの言葉を本当の言葉で書き直すほかない。そうして僕は昨夜、ノートPCを立ち上げた。

そうしてそこに書いたのは「UX」でも「サービスデザイン」でも「ユーザビリティ」のことでもない。『ものをつくる』ときに大切なことは何か、僕が思うことを書いた。

 

よかった。

 

 

ものをつくること

ものを創るとき大切なのは、ものを使う人のことを考えることだと思う。

ものは使うためにあるから。

そう考えると、ものを使う人のことを深く考えようとしてるUXとかサービスデザインとかの考えはとても納得できる。

 

UXデザインが大切にしてること

UXデザインが見てるのは、製品やサービス自体ではない。人を見ている。

友達の誕生日が近くに迫っているとき、あなたなら初めになんて考えるだろうか。

「今年は何を買おうかな」だろうか、いや「何をしたら喜んでくれるだろうか」ではないだろうか。

UXデザインも同じ考え方だ。「何を作ろうかな」ではなく「何をしたら喜んでくれるかな」と考える。

つまりお客さんを喜ばせるには、もしかしたら物ではなくappかもしれないし、歌かもしれない。そのお客さんが喜ぶものによって、UXデザイナーがデザインする対象は変わる。グラフィックデザイナーやプロダクトデザイナーのように、デザインする対象は決まっていない。

 

UX?体験?何でそれをデザインするの?

UXデザイン、その一番の特徴は体験をデザインすることだ。

なぜ「体験」をデザインするのか。

私たちが製品やサービスを評価するとき、どうやって評価しているだろうか。

 

例えば、Yさんはa4の紙を「友達とやる七夕パーティーの短冊用に切りたいな」と思ったとする。近くにカッターがあったのでそれを使うことにした。しかし、カッターマットも必要なので準備した。そうして短冊を作り終わり、片付けになった。カッターマットは滑りにくくなっているので、残った紙くずをかたずけるのが少し手間だった。そしてカッターとカッターマットを片付けた。

Yさんは短冊を作るだけなのに思ってたより時間かかったなと感じる。

次回からはすぐに終わるであろうハサミを使うだろう。

 

これを見る限りカッター自体は何も悪いことはしてない。ちゃんと紙を切ってくれた。だが実際、使う人は「カッターがちゃんと紙を切ってくれたか」だけでは評価してくれない。カッターを使おうと思ってから使い終わるまでのすべてを総合して評価する。(もっと長いこともある)

つまりカッターを良くするだけでは、使う人は喜んでくれない。

 

使おうと思ってから使い終わるまでのすべて、それは言わば「体験」とでも言えるほどの広いものとなった。

 

だから、UX(=製品やサービスを使う人の体験)をデザインする必要があるのだ。

僕が学んでるのは、この2つを実現する方法。そして、その2つを追求すること。

 

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今までで一番分かりやすいかは知らないけど、やわらかい説明ができた気がする。

 

《難しい言葉でまとめなければいけないのなら、それはほんとうに思っていることではないのかもしれない》

《論理として組み立てるとき、乱暴や無理や強引を入れ込んでしまう。》

大切な言葉だ。大切にしよう。

 

UXデザインを簡単に説明して!!

自分のやっていることを、今まで親に理解してもらえなくて悔しい思いをしてきた。そして先日、とうとうその思いが爆発した。

お盆におばあちゃん家に行った時、自分がやっていること「UXデザイン」について説明する流れがやってきた。そうして僕はあらん限りの力を使い、今まで本で読んだ内容を記憶からコピペしながら、自信たっぷりにたどたどしく、UXデザインとは何かを従姉妹家族にとくとくと説明した。

しかし説明してるあいだ、自分の家族を含めその場にいる全員の顔が「君の説明はよくわからない」と言ってくる直前の教授の顔に似てくるのを感じた。

きっとこの場の全員が、教授のように忙しくて精神的に辛いのかもしれないと思い、僕のUXデザインについての話は仕方なく切り上げてあげた。

その後はなぜか込み上げてくる猛烈な悔しさを感じながら、普段使わない脳を高速回転させた代償として、高校野球をアホの顔で眺めていた。

 (土屋研二先生のエッセイのように面白おかしく書きたくなってやってみたが、まだまだだった。文章力のなさを痛感させられた。)

 

上の導入は嘘ではない、「自分のUXデザインについての説明が伝わらず猛烈な悔しさを感じた」というところだけは。

 というわけでUXデザインについての「簡単」な説明を始める。

 

 

UXデザインは当たり前?

「UXデザイン」とは製品やサービスを作る際に使えるアプローチの1つです。

" 考え方 "と" 方法論 "です。

 

まず、何を目的としたものなのか?

『UXデザイン』では、製品やサービスを利用する人(以下ユーザーと言います)は“ 何かやりたいこと ”があるから製品やサービスを使うと考えていて、そのユーザーがやりたいことを出来るようにする製品やサービスを目指しています。

「何を当たり前のことを、それを目指してもらわないと困るよ」と思うかもしれません。

しかし実はこれを目指すのは難しいことなのです。

 

 

” やりたいこと ”はとても深い

例えば人がイケアなどの家具屋さんを利用する場合、その人が ” やりたいこと ” は何でしょう?

何か家具が買いたいからでしょうか?

今「そうに決まってるだろ」と思っていますか?

 

ではイケアのお客さんは" 何か家具が買いたいから "イケアに来たのでしょうか?

 

ニトリの方が安いのに?アマゾンだってあるのに?

 

家具屋さんや通販について何も知らなくて、家の隣にイケアがあり、外から見る限り家具を売ってることがわかったので買いに来たという人なら、そういう理由かもしれません。ですがほとんどの人は、事前にどこの家具屋さんがいいか調べて考えてきますよね?

 

ですから、イケアに家具を買いに来た人が本当に ” やりたいこと ” は " 何か家具が買いたい " では無いのです。本当に ” やりたいこと ” は別にあります。

 

 

イケアに家具を買いに来た人がやりたいこと ”

 イケアには新生活を始める家族が明日までに生活環境を整えるための商品とサービスがあります。小さい子供を預けておける託児エリアがあり、良い子にしていたご褒美に子供をつれてけるカフェもあり、家具の配送を待つ必要なく家具をバラバラにして車に積んで持ち帰ることができます。また、家具の組み立ても道具1つでできるほど簡単で、すぐに組み立て終わってしまうでしょう。

つまり、イケアに家具を買いに来た人が本当に ” やりたいこと ” は

" 家具を買いたい " ではなく、

” 明後日からは仕事だから、明日までに新居の家具を揃えたい ” ということなのです。

 要するに家具が売ってるだけではダメで、イケアにした理由がちゃんとあるのです。

 

 

UXデザインの考える” ユーザーがやりたいこと ”

ですが、そうした本当の ” やりたいこと ” というものは、このように見えにくいものです。個人を取り囲む状況や、その人の持つ知識、性格、によっても変わってしまうからです。

一見簡単そうな、ユーザーの ” やりたいこと ” を実現させるという目標。

実際少し前までは、ユーザーの ” やりたいこと ”を" 家具を買いたい " 程度の認識でものをデザインしていました。

それにより、たくさんの似たような商品が出てきました。

 

UXデザインはユーザーが本当に ” やりたいこと ” が何なのかそれを考えてデザインするのです。

そしてそれを実現させるには、イケアのようにユーザーを総合的に支援することが必要になってきます。それは、初めからはデザインする対象を決めていないということでもあります。

ユーザーが”やりたいこと”を達成させてあげるために何が必要か、初めはわかりません。建物かもしれないし、店内BGMかもしれないし、appかもしれません。

ですが、それらすべてを含む一番広い枠組みの『体験』から考えることで考え残しが無くなくなります。

 

僕が思うにそういう理由で『体験』をデザインするのだと思います。

 

 

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(参考文献,HCDライブラリー人間中心設計入門:山崎和彦・松原幸行・竹内公啓,

ジョブ理論:クレイトン・M・クリステンセン,UXデザインの教科書:安藤昌也)

 

まだ、簡単に言えてない気がする。

 

 

 

 

UXはなぜ必要になったのか?〜ユーザビリティには、足りない〜

ユーザビリティからUX、ジョブ理論への移り

僕たちは自分のやりたいことを達成するために、製品やサービスを購入して使います。

 

つまり、製品やサービスには「ユーザーがやりたいことを達成できるか」が企業にとってもユーザーにとっても、重要な点になってきます。それができるかどうかで、ユーザーにとって「価値のあるものか無いものか」決まってきてしまうからです。

価値のないものは、ユーザーは買いませんので企業は潰れますし。価値がないものだと、ユーザーもなんか不満で気持ち良くありません。幸い今の世の中は、製品やサービスの実用的な面は満たしているので、使えはします。

そのため、ユーザーが我慢すればこのまま発展しないでも良いくらいの世の中にはなっています。ですが進化し続けるのが人間なので、さらに先に進むのです。だからユーザビリティはUXに取って代わられたのだと思っています。

 

 

 

「僕のやりたいことは何?」

さて、話を戻しましょう。

僕たちは自分のやりたいことを達成するために、製品やサービスを購入して使います。

そうだとすると一番気になるのが、自分がやりたいこと、「ユーザーがやりたいこと」とは「何か」というところです。

この「ユーザーがやりたいこと」をUXだと「価値」、ジョブ理論だと「ジョブ」と言います。

 

例えば僕はWALKMANを買って毎朝電車で使ってますが、「僕がやりたいこと」は何でしょう?

ユーザビリティの考えを基にするならこう言うかもしれません。

「 “ 毎朝電車で携帯音楽プレーヤーで音楽を聴く ” ことが ” 君がやりたいこと ” だろう」と。

つまり僕は “ 毎朝電車で携帯音楽プレーヤーで音楽を聴く ” ためにWALKMANを買い、使っているようです。

 

本当にそうでしょうか?

確かに、実際に僕がやっていることは “ 携帯音楽プレーヤーで音楽を聴く ” ことです。

ですが自分がやりたいことは、求めていることは、本当にやっていることと一致しているのでしょうか。

ちなみに僕は買いはじめこそWALKMANを買って毎朝電車で聴いていましたが、今はほとんど使うことがありません。

自分がやりたいことが “ 携帯音楽プレーヤーで音楽を聴く ”ならば、毎朝電車で聴き続けているはずです。

そこのところはどうなのでしょうか??

 

……ここまでがユーザビリティの限界でしょう。

 

 

UX、ジョブ理論の「本当にやりたいこと」

ユーザビリティが考える「ユーザーがやりたいこと」は実用的で合理的なことのみです。

UXやジョブ理論は、その裏側に本当の「ユーザーがやりたいこと」が隠れていると言っています。

僕は毎朝電車の中でWALKMANだけでなく、outubeから紙の小説や電子小説、スマホのゲームアプリや、スマホのニュースアプリ様々なものを使っています。そこからわかることは「僕は毎朝電車の中で携帯音楽プレーヤーで音楽を聴きたいわけではない」と言うことです。

 

そして僕はそんな風に試行してきて「自分が本当にやりたいこと」に気づいたのです。

それは「毎朝、電車の中は人が多いし立ってなきゃいけないし狭い、電車の中で感じるそのイライラを下車予定の駅まで、どうか気にしないように紛らわしてほしい」ということだったのです。WALKMAN買わなくてよかったことがわかりました。すごい高かったのに…。

 

 

「ユーザーがやりたいこと」と「体験」のつながり

そして「ユーザーがやりたいこと」を実現するにはそれを「体験」に落とし込む必要があります。

あなたはこう思うでしょう「なぜ体験に落とし込む必要があるんだろう?」「商品を作ればいいんじゃないの?」

いや、それでは足りないのです、「ユーザーがやりたいこと」を実現するには。

 

例えばイケアでは、新しい環境で自分及び家族の生活環境を整えようとする際に多くの人が感じる「明後日からは仕事だから、明日までに新居の家具を揃えたい」というものを「ユーザーがやりたいこと」に設定しています。

そしてそれを実現するには、提供する側(企業など)はどうする必要があるでしょうか。

まず、家具を買いに行くとき、おそらく子供を置いてはいけないので一緒に連れていく必要があります。しかし、子供ははしゃぎます。それに親はイライラしてしまいます。

しかしイケアには託児エリアがあるので、親が店内をぶらつくあいだ子供を遊ばせておけます。そして買い物が終わったあと、子供がいい子にしていたご褒美に、カフェやアイスクリームショップが用意されています。

また、「明日までに家具を揃えたい」というユーザーの思いに沿って、家具を車に楽に積んでいけるようにバラバラに梱包してもらえます。

さらに、すぐに楽に組み立てれるように、イケアの商品は1つの道具で組み立てられるようシンプルに設計されています。

 

子供を連れイケアで商品を買ってから家で組み立てるまで、一日の「体験」がデザインされることで「ユーザーがやりたいこと」が実現されているのです。

僕が思うに、本当に「ユーザーがやりたいこと」を実現させるには様々な要因があるのでしょう。商品の性能面やユーザーの感情面や立たされている社会的状況、時間による変化など。それらを全てデザインの対象に入れると、結果「体験」をデザインすることになったのではないでしょうか?

 

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一見、論理的にも整合性がとれているので、実用的なこと合理的なことが「ユーザーがやりたいこと」だと納得してしまう。

そしてそれは多くの人に共通しているから、それを達成しているデザインは「多くの人に応えている良いデザイン」に思える。

 

でも、実用的なこと合理的なことができてる製品やサービスは溢れ、コモディティ化している。

それは今や良いものでもなんともない。

 

実用的なこと合理的なことの裏に「その人がやりたいこと」がある。

その人は、本当に実用的で合理的なことだけができれば満足な人なのか?そんなにそれに満足しているのか?不満はないのか?その人は何を想っているのか?

 

「みんなの、一般的なジョブ」ではない(それは実用的で合理的なやりたいことだ)。

「その人のジョブ」を解決しよう。

 

 

 

(参考文献,HCDライブラリー人間中心設計入門:山崎和彦・松原幸行・竹内公啓,

ジョブ理論:クレイトン・M・クリステンセン,UXデザインの教科書:安藤昌也)

 

思考と行動のズレ

一つ前に投稿した『概念ってなんだっけ』に派生してねちねち考えが進んだ。

 


自分が日時の生活の中で「〜したい」という思いがある。

そして、それを実現するために何かしらの「行動」を僕はしている。


人間誰しもそれを繰り返して生きてるだろう。


ただ概念と同じように、自分が考えたことを行動して実現する際、その行動が本当に自分が考えたことを実現する最適解かは分からない。

むしろ、最適でなかったりする。


自分が今した行動は、自分がしたいと思ったこととズレがないだろうか?

「概念」ってなんだっけ?

たぶん今後「概念」を勉強することになったとき、楽に理解できると思うので考えてみた。

 

概念ってなに

概念て、人が考えを広めるための手段なのかな。もしかしたらみんな分かっている当たり前のことかもしれない。しかし今まで、専門書に「概念」とかFGOに「概念礼装」とか言われるたびに、なんだかわからなくてモヤモヤすると思ってきた。そう考えて今、腑に落ちている。

 

例えば、

“ 神 ”っていう概念はキリスト教の人が「私たちは作られた存在で、作った全知全能の存在がいる」ってことを世界中の人に広めたいから作ったわけで、

“ 部落 ”っていう概念はある人が「あの集団は悪くて嫌な奴」ということを他の人にも広めたいから作ったわけで、

ユーザビリティ  ”っていう概念もニールセンが人工物をより人にとって良いものするために「良いものの基準」を広めたいから作ったんだろう。(ニールセンの気持ちは予想だけど、そうじゃないとやらないはず)

 

つまり概念の内容はなんでもいい。広めたいことならなんでも。固有名詞でも、修飾詞でも、尺度でも、分野でも、

 

概念は、考えた人の頭の中にある状態が一番純粋で、その人の意思を反映している。

概念という頭の中にある状態ではふわふわしていて定まっていない。そこで伝え、広めるためには「定義」する必要がある。

ただ、そこでズレが生じる。ニールセンが「人工物をより人にとって良いものにしたい」と考えていたとすると、初めからUX(その先もあるけど)とか考え出してもおかしくない。でも、出なかった。

概念の「定義」は今ある状態がベストとは言い切れない。現実に定義されている文面は概念を考えた人のそのままの考え100%が出ていることは中々ないからだ。

実際、ニールセンが実際に定義したものはスモールユーザビリティ と呼ばれ、「人工物をより人にとって良いものにしたい」という考えを完全には実現できてなかった。

 

概念の「定義」が更新されていくことは良いことだ。それにより、概念は本当の姿に近付いていく。純度は高くなっていく。

スモールユーザビリティはビックユーザビリティになり、UX、サービスデザインになりさらに「人工物をより人にとって良いものにする」という願いに近づいていく。

 

【今後、概念と呼ばれるものを勉強することになったら必要なこと】

今ある概念の「定義」が本当にそれでいいのか疑ってみること。

また考えを言語化する(定義づける)には、どれだけ頭の良い人でもズレが生じてしまうと意識すること。

概念の「定義」は今より良い定義が見つかる可能性があり、今ある定義は現状での最高の仮説であること。

一番は、その概念を考え出した人が何を実現したかったのか、言いたかったのか知ること

概念は更新され、名称も変わることがあること

 

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頭の中の考えを、言語化することで発生するズレ…

意識と無意識という脳の奥深さを感じる。