ワンモア、ユーザビリティ
以前ブログで書いたユーザビリティ についてのまとめは、全然まとまっていなかったので、自分の言葉でまとめなおした次第です。
ユーザビリティ は人工物(製品・サービス)を使うユーザーにとって良いものは何かを定めようとして生まれた概念です。
その考えに沿うようにユーザビリティという概念は少しずつ変わっていきました。
初期のユーザビリティという概念
1993年頃のニールセンは、ユーザーのためには今ある人工物の「使いにくいところ」をずっと修正していけば、使いやすいものとなり、ユーザーにとって良いものとなると考えたのだろう。だからこそ、方法としては人工物を評価することが必要で大切だと考えていたようだ。それは、ヒューリスティックという評価方法を考えたことと、ユーザビリティ 10原則という評価基準を考えたことからもわかる。
ニールセンは、ユーザーにとって良い人工物を生み出すための ”使いやすさ” の尺度としてユーザビリティという概念を定義した。
その考え方はマイナスをゼロに変えるものと、他の記事でみたが確かにそうだと思った。この考えは「使いにくい」と感じなくなったら、それは「使いやすい」ことと同義というものだ。悪いところを直すことで前より良くする、つまりそれは人工物にある ”悪いところ” という穴を埋めるようなもので、もともと人工物についていない「良いもの」を足すような考えではない。どちらかというと、消極的で、受け身な考え方だろう。
その考えは当時の企業たちからもウケが悪く、「新しい良いところ」が増えるわけでもないなら、顧客も反応が悪く自分たちの利益も上がらないだろうと考えたようでした。また、実際の方法が ”評価” だけというのも、リリース間近にそんなこと言うなということで受け入れられなかったようです。
ユーザーのために“受け身” から ”積極的“ に
1998年、マイナスをゼロに変えるユーザビリティという概念は変わりました。
国際規格ISO9241-11でユーザビリティは新しく定義されました。「ある製品が指定された利用者によって指定された利用の状況下で指定された目的を達成するために用いられる際の、有効さ・効率・利用者の満足度の度合」がユーザビリティだということになりました。
国際規格ISO9241-11はこういっているのでしょう。
「人工物を使うユーザーにとって重要なのは ”人工物が使いやすいかどうか” はもちろんだがそれだけじゃない、そもそもユーザーは ”自分の目標を達成(例えば、コピーをA4で5枚白黒で取りたい等)” したいから人工物を使うんだ、だからどうやったらユーザーが適切に目標を達成できるかを考えよう」と。
ニールセンの考えから国際規格ISO9241-11の考えに変わったことで、マイナスをゼロに変える考え方から、ゼロをプラスに変える考え方へ大きく変わったと言われています。
ニールセンは「ユーザーのためには ”使いやすさ” を追求するべきだが、実際のアプローチは ”使いにくい” と分かったところを潰していくのが手っ取り早く、確実」だと考えました。これはダメなところが見つかったら修正する、見つからなかったらやらないという受け身な考えです。
翻って国際規格ISO9241-11は「どうやったらユーザーが適切に ”目標を達成できるか” を考えて、一見なさそうでも探していこう」という積極的な考え方をします。
こんなふうに考え方は大きく変わり、区別のため、ニールセンが初めに唱えたものはスモールユーザビリティと言われ、新しいこの考えをビックユーザビリティと言われます。ですが僕は、国際規格ISO9241-11はニールセンのユーザビリティ概念が補強されただけという気がします。実際、国際規格ISO9241-11はニールセンの考えを含んだものです。
この変化は「ユーザーのために人工物を作る際に考えるべきもの」が
”人工物の使いやすさ” から ”ユーザーが目標達成できるか” に変わっただけだと思うのです。
ユーザビリティ は越えられる
このように、 “ユーザビリティ” とは「ユーザーにとって重要なのは目標達成(例えば、コピーをA4で5枚白黒で取りたい等)という認識を基にした、どうしたらユーザーの目標を適切に達成できるかを考えるための ”人工物の使いやすさ(有効さ・効率・満足度・ユーザー自身と利用状況)” を測る基準の概念」です。
この概念はユーザーのことを考えるために使える素晴らしい概念だと思います。
ただ、この後にユーザーのことを考えるために使える「もっと」素晴らしい概念が生み出されますが。
いや、ユーザビリティは(おそらく)その基礎となったのでけして無駄にはなっていません。ユーザビリティは何も悪くないのです。
「ユーザーのために!!」という想いは変わらなく、それを現実に落とし込むときに「ユーザーのための人工物を作るときに考えるべきもの」が変わっただけなのです。
【次回、UX参上】
(参考文献,HCDライブラリー人間中心設計入門:山崎和彦・松原幸行・竹内公啓,
ジョブ理論:クレイトン・M・クリステンセン,UXデザインの教科書:安藤昌也)
今更だけど、デザイン思考。
少し前に「デザイン思考」という言葉が流行ったと思う。今も覚えていてくれているのだろうか。僕は大学で学んだ。にも関わらず、そんなによくわかっておらず、たびたび教授にデザイン思考で言ってたじゃんと言われる。
そんなデザイン思考について、何だったんだっけと思いを馳せてみた。
ニセ”デザイン思考”
デザイン思考は
ユーザーへの共感→問題定義→解決のためのアイデア創出→
プロトタイピング→検証→
このプロセスを回すことが大事、と言いたかったわけではないと思う。
これはとても画一的だ。
デザイナーである nendo の佐藤オオキさんは「イノベーションは画一的なシステムにするにはまだ難しい、それはデザイン思考も同じ、入り口としては良いものではあるけど」とインタビューで語っていた(”佐藤オオキ デザイン思考” で検索すると出てくる)。
そしてデザイン思考の成り立ちは、デザイナーの思考を一般の人が真似できるようにしたいという思いからだったはずだ。セミナーで聞いた。
デザイナーが「イノベーションは画一的なシステムにするにはまだ難しい」と言っているのに”画一的”でデザイナーの真似ができると思うはずがない。いわんやIDEOをや。
つまり画一的”デザイン思考”は間違えて広がったのだ。
だが巷では、間違えの方が拡散していたのだろう。
佐藤オオキさんもそっちを ホントの”デザイン思考” と勘違いして、インタビューではそんな風に言ったにちがいない。(違ったらすいません)
ホント”デザイン思考”
そこで僕なりにデザイン思考を扱っている専門書を今読んでみて思うのは
デザイン思考は、
・自分が誰を喜ばせなきゃいけないのか
・その人を理解できているのか
・その人にとって何が本当に必要なのか
・自分が考えた「その人にとって必要なもの」は独り善がりの考えになっていないか
・独り善がりになっているならば、何が足りないのか
・自分はどうすればその人が喜ぶものを作ることができるのか
こういうことを常に考えながら、仕事を、デザインをしてほしいということだと思う。
だから僕が読んだ専門書では、目的のためのプロセスを考えるところからやれって言うし、
何度も作って検証(ラピッドプロトタイピング)することが大事と言っていた。
それに今まで佐藤オオキさんのデザインをどう作ってきたかなどの本を何冊も読んでいるが、多くの手法を場合によって使い分け、組み合わせてもいた。
本当の ”デザイン思考” は目的のためのプロセスを考えるところからやる、考え方を教えていたんだ(それならデザイン”思考”という名前にも納得だし)、というのが今のところの納得できる結論。
いいと思うな。
参考文献:HCDライブラリー0巻 人間中心設計入門
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デザイン思考とかユーザビリティーとか、名前自体は大切ではなくて、それを言い出した人が何を伝えたかったかを自分で解釈することが大切なのかな。本を書いたり、記事を書いたりする人はそういうことを考えてるんじゃないかな。
夏風の価値…一応勉強の話。
今、” 夏風 ”の価値について考えている、
” 風 ”ではなく” 夏風 ”だ。
とりあえず仮説を2つ考えた。
①生き物と心を通わせる価値
木陰で涼んでる時に草木がそよいだら「そうか涼しいか、俺もだよ」みたいな。
生産性皆無だけど。自然と同化、しかも良い方向にしてることに価値を感じるかなって。中二なのかな?
でも、自然と同化、しかも良い方向にしてることに価値を感じるだと、
生き物と心を通わせる価値という定義は違う気がする、
自然の感じる嬉しさに共感できる価値かな?
ただ、夏以外の季節にはその価値がないのかと言われたら、どうだろう。
くたびれた会社員のオジさんが寒い冬、通勤途中の信号待ちで、街路樹からの落ち葉がサーって舞ったら「こんなになちゃって寂しいな、俺もか」とは思うけど、良い方向で同化してないから気持ちよくはないかな。
でも、高校へ入学式当日の15歳が桜がふわって舞い上がるのを見て「俺、ワクワクしてるな」って気持ちが高ぶるのは想像できる…。う、夏以外にあったわ…。
②特に夏に感じる感情(気の高ぶり、気だるさ、心の不安定さ)を深く見つめさせる価値
情景描写で風が使われるよね?
「遠く高い空の果てから、冷たい風の響きが悲しげに燈多き街の方へと走って行った(永井荷風 / 夢の女 より)」みたいな
それって、何も言わない見えないからこそ、想像させる余白みたいなのがあるからだと思う、
そしてその余白はその時感じてる感情を強調するような効果があると思う。
だから、「風」は吹く事によって自分の感情を深く見つめさせる価値、があるんじゃないかと考えて
その時「”夏”風」は特に夏に感じる感情(気の高ぶり、気だるさ、心の不安定さ)を深く見つめさせる価値、があるのかもとは考えた。
ただ、「風はきっかけ説」の延長だけど
でもまてよ、、情景描写って、読み手、つまり神に伝えるためのものでは?
実際、情景描写のように人間が感じることなんて…あるのか?
感性豊かマンならあるだろうけど…
自分は…明るい気分の時に自転車乗ってて、風が追い風でゴウゴウ吹いた時、たしか「ペダル軽いわぁ〜、今日はいいことありそう」としか思わない気がする。
自然皆無かも。また、突っ走ったか??
「何も言わない見えないからこそ、想像させる余白みたいなのがある」までは良かったと思う。
でも、風景描写、及び「風」は読み手にその場面の感情を想像させ、膨らませる効果がある、が根拠からの推論としては正しいのでは?
今回はこんな悩んだ状態で終わります。
事実に基づいた仮説に基づいた仮説 = もはや根拠のない空想
書く程でもないことだけれど、書こうと思う。大切な学んだことだから。
今日は卒制を進めていた。そろそろ夏休みに入ってしまうから、その前に後期の予定を立てなければならない。
僕の卒制は議員さんにインタビューしたときから進んでいなかった(インタビューからも良いものを得られなかったし)。そんなんだったから、まずい!と感じここ数日、本を読んだり、自分は実体験から何を感じ取ったのかを振り返ったり、最終的にどうしたいのかを考え込んでいた。
僕が考えたものはこうだった。
僕は実体験として選挙の際、政治家に興味もなく、深くは調べずスマホでさっと見てから投票していた。また、読んだ本では統計に基づいた”若者の投票率の低さ”から”若者の政治離れ”が叫ばれていた。
そこからできた仮説はこうだ。
《若者と政治の間には”若者の政治離れ”が叫ばれるほどのなんらかの距離、隔たりがある。それは若者と政治のスキマとでも呼べるようなものだろう。》
次に僕は若者と政治のスキマは、社会課題を若者が自分自身で考え行動することで埋まるものだと考えた。そして、若者が社会課題に出会い、行動し、それに対して意見を持つまでをストーリーにし描き出した。簡易的なストーリーボードだ。
ただ、この時点で卒制はおかしな方向に進んでいた。
ここで僕は、事実を元に立てた《若者と政治のスキマ》の仮説に基づき、《社会課題を若者が自分自身で考え行動することで埋まるもの》という仮説を立てていた。
仮説に基づいて仮説を立てた形だ。名探偵コナンでいう「そ、そんなの探偵さんの推測でしかないじゃないかっ!デタラメだ!!」というやつだ。
そう、初めの仮説を検証もせずに先に進めていたから、デタラメになってしまったのだ。もし《社会課題を若者が自分自身で考え行動することで埋まるもの》という仮説は、そもそも前提の《若者と政治のスキマ》は何かがわかってないのでまずそこから間違えている可能性がある。
ただ、早く卒制の見通しを立てないとという焦りがあった。それにより自分が立てた仮説を「それは事実」と思いこむことで少しでも先に進もうとしていた、事実焦っていた。それが今回の原因だろう。
事実と仮説について明確に認識を分けておくべきで、少し進んだら振り返り整理するということが必要になってくる、そういえば近畿大学経営学部の方達がそれをやっていたことを思い出した。
何かを探求するとき、どんどん進めようとアクセルがかかることがある、おそらく今までもこのパターンはよく起こっていたのだろう。とても考えが進んだと思った次の日の朝、そのメモを見ると「なんだこの根拠もないよくわかないものは」と捨てていたことがそういえばよくあった。
なんだかこれは自分の「クセ」のようだということが思い出とともに分かってきた。今回、先生に気づかせてもらったが良かった。社会に出る前で。ここがロジカルでない要因の一つだろう。
*今回の名言*
「そ、そんなの探偵さんの推測でしかないじゃないかっ!デタラメだ!!」
ワカモノのセイジ離れ
なんか「政治離れ」とか「若者の政治への関心」とか、「政治参加」とか考えていたら、そもそも「政治」ってなんだと気づいた。
だいたい政治という言葉が使われるときは、選挙の際の投票率をTVのNEWSが知らせるときや、政治家について話すときな気がする。では「政治」とは、選挙の際に政治家に投票することか?政治家に関わることか?つまり、政治家=政治?バカな、それはおかしい。
でも「若者の政治への関心が低い」という話が出るときは、そういう意味でコメンテーターも使ってる。
じゃあ、若者がみんな何も考えずに適当に名前を書いて選挙の投票率が上がったら、「若者の政治への関心が高い」と言えるのか?
いや、「若者の選挙の投票率が上がった」としか言えない。
つまり「政治」って言葉、みんなどんな意味で使ってんの?「政治参加」って何したらそう言えんの?って話である。
あと最後に、「若者」って何よ。
睡眠>食事だった
7月の6,7日に大阪の近畿大学で勉強したことの交換会を行った。もちろん近畿大学の方と。
しかし、お金が無かった。バイト先が潰れてから何もしてなかったからだ。交通費をできるだけ安くするため、行き帰りどちらも夜行バスにした。
これがやはりキツかった。寝れるが、寝にくい。睡眠の質は最悪だった(笑)。久しぶりの夜行バスだったので、ダメージは大きかった。
また、大阪でもご飯は食べていたが、栄養バランスは悪かった(笑)。あと睡眠不足も。
そんなこんなで楽しい交流会も終わり帰ることになったが、夜行バスが静岡に着いたのは朝の6時。
その日は午後イチから授業で、家に帰ることが色々あってできない不運もあったが、ホテル併設の温泉やガソリンスタンド併設のカフェで朝の時間を過ごせた。
ここからが大切だが、それでも体調は悪かった。お腹も満たしているし、朝はゆっくりした時間も過ごしたのになぜだ?と思っていた。
しかし、友人に「絶対睡眠時間が足りてない」と言われ、しっくり来た。なぜならすごく眠かったから。
つまり、三大欲求ってあるけど、その中で自分が1番重視すべきものは睡眠だと気づけた。
自分の体にまた少し詳しくなったことが嬉しかったので、ここに記しておく。
0706-07 近畿大学合同LT&WS祭りの振り返り
今まで、知識として知っていた事を、身をもって知らされた感じ。いい経験だったと思う。ただ、飲み会の席で話すのが下手なのは体験しても治らない…。
ルールを守って思考放棄
2日目のWSの際、理論を覚えることばかりを考え、学んだプロセスに囚われていたと実感しました。僕は「実際の体験談を思い出す→その中から価値を探す→ペルソナの設定」のように進めようと考えていました。
しかし、それではこれでいこうと思える価値を見つけることはできず、真太郎さんが言ってくれた「こうしてくれたら嬉しい」という価値の話から始まりました。覚えていたプロセス通りに進めようとしていたことは、思考停止でした。他野の勉強をしている方の姿と一緒に取り組む事で、頭ではないところで理解できました。
他大学の方と実際に協力しサービスを作る事で、頭でしか分かってない知識的な「注意事項・自分たちの強み」を実感する事で知識が自分のものになり楽しかった。
WSのチーム進行
真太郎さんが出してくれた価値に、「なぜ価値があるのか」を深く考えるのが僕の仕事だったはずでしたが、時間を気にして内容を詰めていってしまいました。ここが先生方に「価値が浅い」と言われた部分なんだろうなとお昼に気づきましたが、20分で根本からは変えることもできず、モヤモヤしながら発表しました。
ただ、価値を深く考えるというか、真太郎さんから訊き出すのをためらってしまった理由には別の問題もありました。学んできた事により、異なる思考方法で考えていたので、なぜ価値を深く考えるのか理解しにくい(または理論はわかるけど納得はできない)というようでした。
それを感じたので自分の考え方をどこまで押し付けていいのだろう、と流され気味になってしまいました。しかし、そこで引いてしまったのは、その場での自分の役割の認識の甘さが原因だったと思います。自分が何を求められているのか、もう一度しっかり把握しなければ。
卒業制作
卒制の話、LTに関しては最悪。keynoteか…。発表スライドを作るソフトが違ったようだが、いつ言ったんだろう…。どこかで掲示してて見忘れた可能性が高い。とりあえず、これで身をもって発表の際に確認する事を覚えた。
卒制については、ユーザーが知らない間にお金を動かすという視点を聞けた。卒制のテーマ自体は進展なし。
まとめ
これまで学んだ事をもう一度、読んだ本たちを読みながら考えていきたい。また、その学んできた事は何の意味があるのか、他のものではダメなのか、もう一度真剣に自分に問いかけながら進んでいきたい。