とりあえずブログ

ゴトウヒデキの活動記録や活動していない記録、それから考えたことをつらつらと書きます。

夏風の価値…一応勉強の話。

今、” 夏風 ”の価値について考えている、

” 風 ”ではなく” 夏風 ”だ。

 

とりあえず仮説を2つ考えた。

 

生き物と心を通わせる価値

木陰で涼んでる時に草木がそよいだら「そうか涼しいか、俺もだよ」みたいな。

生産性皆無だけど。自然と同化、しかも良い方向にしてることに価値を感じるかなって。中二なのかな?

でも、自然と同化、しかも良い方向にしてることに価値を感じるだと、

生き物と心を通わせる価値という定義は違う気がする、

自然の感じる嬉しさに共感できる価値かな?

 

ただ、夏以外の季節にはその価値がないのかと言われたら、どうだろう。

くたびれた会社員のオジさんが寒い冬、通勤途中の信号待ちで、街路樹からの落ち葉がサーって舞ったら「こんなになちゃって寂しいな、俺もか」とは思うけど、良い方向で同化してないから気持ちよくはないかな。

でも、高校へ入学式当日の15歳が桜がふわって舞い上がるのを見て「俺、ワクワクしてるな」って気持ちが高ぶるのは想像できる…。う、夏以外にあったわ…。

 

 

 

 

 

特に夏に感じる感情(気の高ぶり、気だるさ、心の不安定さ)を深く見つめさせる価値

 

情景描写で風が使われるよね?

「遠く高い空の果てから、冷たい風の響きが悲しげに燈多き街の方へと走って行った(永井荷風 / 夢の女 より)」みたいな

それって、何も言わない見えないからこそ、想像させる余白みたいなのがあるからだと思う、

そしてその余白はその時感じてる感情を強調するような効果があると思う。

 

だから、「風」は吹く事によって自分の感情を深く見つめさせる価値、があるんじゃないかと考えて

その時「”夏”風」は特に夏に感じる感情(気の高ぶり、気だるさ、心の不安定さ)を深く見つめさせる価値、があるのかもとは考えた。

 

ただ、「風はきっかけ説」の延長だけど

 

でもまてよ、、情景描写って、読み手、つまり神に伝えるためのものでは?

実際、情景描写のように人間が感じることなんて…あるのか?

感性豊かマンならあるだろうけど…

自分は…明るい気分の時に自転車乗ってて、風が追い風でゴウゴウ吹いた時、たしか「ペダル軽いわぁ〜、今日はいいことありそう」としか思わない気がする。

自然皆無かも。また、突っ走ったか??

 

「何も言わない見えないからこそ、想像させる余白みたいなのがある」までは良かったと思う。

でも、風景描写、及び「風」は読み手にその場面の感情を想像させ、膨らませる効果がある、が根拠からの推論としては正しいのでは?

 

 

今回はこんな悩んだ状態で終わります。